2008/12  << 1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15/16/17/18/19/20/21/22/23/24/25/26/27/28/29/30/31/ >>

レゲエレゲエレゲエ

レゲエレゲエ2

カテゴリー

レゲエレゲエ

RSSフィード

ブログ内検索

レゲエレゲエにようこそ
カテゴリ
レゲエって何?

レゲエとはジャマイカで生まれた音楽のことです。
なぜレゲエと呼ばれるようになったのかは色々な説があります。
有力なのは、このレゲエという言葉は、ギターの裏打ちである「ンチャ、ンチャ」という音からそう呼ばれるようになったというものがあります。確かに聴き方によっては「ンチャ」が「レゲエ」と聴こえなくもないですが、ちょっと苦しい説にも思えますね。
その次にレゲエ誕生説としてメイタルズの「ドゥ・ザ・レゲエ」という曲からはじまったというものもあります。どちらが真相なのでしょうか?一般的にレゲエは先述しましたように、ギターやドラムなどの楽器でリズムをバックビートにしています。確かにこれはレゲエの特長のひとつであることは間違いありませんが、レゲエがすべてそういうゆったりしたリズムであるかというとそれは違います。レゲエの中にはスカと呼ばれるビートの速い曲から、ダンスホールのようなトラックを極限まで簡略化したようなものまで多種多様。
ではレゲエの見分け方はどこで決まるのでしょうか。この曲はレゲエかな?という判断はドラムとベースを注意深く聴くとよく解ります。どんな曲調でもレゲエのドラムは基本的に2、4拍にアクセントを置いています。またベースも非常に特長的です。よくレゲエのベースは「グルーヴィー」とか「うねっている」と表現されることが多いですが、これはレゲエ以外の曲とレゲエを比べると違いがすぐに理解できるのではないかと思います。以上の点から見ましても、レゲエが他の音楽と違う部分が多くあるということがお解かりいただけるのではないでしょうか。レゲエに一度はまるとなかなか抜け出せないというのは、こうしたレゲエの音の特長にもあるのです。


続きを読む »

top
レゲエの誕生

レゲエ以前、ジャマイカではアメリカの音楽がラジオ経由で人々に聴かれていました。
ジャマイカ人はレゲエ以外は聴かないというイメージもありますがそんなことはありません。レゲエ以前、50年代はジャズやリズム&ブルースがアメリカからもたらされ、人々はこれらの曲でダンスしていました。こうしたダンスホール(現在のダンスホール・レゲエとは意味が異なります。ここではレゲエ以前の「ダンスをする場所」という本来の意味で捉えてください)の経営者たちはアメリカに渡りレコードをたくさん仕入れてはヒット曲をいち早くダンスホールでプレイしました。ちなみにレゲエがメインとなってからもダンスで最新ヒット曲をかけるというスタイルは同じですね。そのうちレコードを仕入れるよりも自分たちで演奏したほうが早いし、安上がりだということに彼らは気づきます。ここからレゲエの誕生までもうすぐ。ダンスホールの経営者たちは音楽学校に通う優秀なミュージシャンや、プロの音楽家を集めてラジオから流れてくるアメリカのヒット曲をカバーさせました。
そしてそれらの曲をダンスで演奏したり、レコードにしてダンスでプレイさせたりするのです。レゲエを知る前の人々はこれらの曲に熱狂しました。また、単にジャズやリズム&ブルースをプレイするだけではなく、徐々にカリプソやメントなどのカリビアンミュージックを混ぜたりして独自のスタイルに変化していきます。こうしてレゲエが誕生するのです。レゲエとは純粋な1ジャンルではなく、様々な音楽の要素を取り込み、それらが組み合わさってレゲエへと作り上げていったのですね。現在でもレゲエはレゲエ以外の色んな音楽とクロスオーバーしているといわれていますが、レゲエの誕生そのものが異種配合だったわけですから、レゲエがクロスオーバーなのはある意味当たり前といえるのではないでしょうか。

top
レゲエの歴史

レゲエ以前

1962年のジャマイカ独立以後、ジャマイカのミュージシャンは独自の音楽を作り出すことを模索する。そうした中で生まれたのがスカである。スカは、ジャズやリズム・アンド・ブルースなどのアメリカ合衆国の音楽や、カリプソ、メント等のカリブ海の音楽に影響を受け誕生した。裏打ちのリズムが特徴である。その後スカのテンポが遅くなり、ベースラインがより複雑になったロックステディが生まれる。


サウンドシステム

ジャマイカの音楽は一般的にサウンド・システムと呼ばれる移動式で、巨大なスピーカーを積み上げた音響施設でプレイされる。そこでは曲を掛けるセレクター(selector。他音楽ジャンルのDJにあたる)、曲に合わせてトースティングしたり歌ったりするDJ(Dee Jay)、セレクターのかける曲の説明などをして場を盛り上げるMCなどの役割分担がある。そこではダブ・プレートというそサウンドシステム独自のレコードをかけたりして、互いに競い合った。レーベルの経営者がサウンドのオーナーであることが多く、リディムやトラックと呼ばれるカラオケを使いまわすというスタイルが出来上がったのはロックステディのころであるという。また、これらのサウンドシステムはクール・ハークなどの移民によってアメリカへ持ち込まれ、ヒップホップの誕生に影響を与えた。レゲエではMCのことをDJという。


レゲエの誕生

ロックステディは一世を風靡したが、短命に終わり、1968年にはレゲエに取って代わられることとなる。ワンドロップと呼ばれる3拍目にバスドラムとスネアのリムショットが入るゆったりしたリズムと、覚えやすく印象的なベースラインがレゲエとそれ以前のジャマイカ音楽との違いである。このころのレゲエ・ベース奏者の先駆者として、ウェイラーズのアストン・バレットがいるが、彼のアイドルはビートルズのポールでありポールのベース・ラインの影響を色濃く反映している。このようにレゲエは常にジャマイカ国外のポピュラー音楽に多くの影響を受けて成立したと言える。また、歌詞の内容も社会問題について歌うものが多く、ジャマイカの宗教的思想であるラスタファリアニズムにも多大な影響を受けている。


1970年代

それまで様々な音楽の影響を受けて混とんとしていたレゲエは、1970年代に入り、ルーツロックレゲエと呼ばれるスタイルを確立していく。またキング・タビーによるダブの発見、ディスコ音楽からの影響を受けた四つ打ちのリズムであるステッパーズリディムの登場などにより、主にクラブミュージックの分野で後世、大きな影響を与えることになる。またキングストンのゲットーを舞台にした映画「ハーダーゼイカム」やボブ・マーリーの世界的な大ヒットにより、レゲエはカリブ海の一民族音楽の枠を超え、世界に広まった。


ダンスホールレゲエ

1980年代初頭に入っても良質なルーツレゲエの作品が次々と発表された。それに加え、ジャマイカではダンスホールレゲエと呼ばれるリディムに乗せてDee Jayするスタイルが一般的になる。そんな中、1985年にプリンス・ジャミーが発したリディム「Sleng Teng」からレゲエのデジタル化が始まる。これらの打ち込みよるトラックは、当時はコンピューターライズドと呼ばれた。

コンピュータライズドとは、バックのトラックをドラムマシンやシンセサイザーで打ち込んだ物を指す。初のコンピュータライズドとなった「Sleng Teng」は、なんとカシオトーンのみで製作された。その後、スティーリィ&クリーヴィという二人組がコンピュータライズドのトラックを大量生産し、ヒットを飛ばし続けた。

またこのころからレゲエからラスタ色が薄れ、スラックネスと呼ばれる下ねたを中心とした歌詞やガントークなどが流行する。


ラヴァーズロック

ジャマイカ移民達によってイギリスで1970年代にクリエイトされたブリティッシュ・レゲエ。中でも南部の黒人都市ブリクストンで誕生したと伝えられるラヴァーズロックはUKならではのハイブリッドな響きを持つ最高のポップミュージック。 ラスタファリアニズムの影響下、当時台頭していたルーツ・レゲエを後目にUKブラック達はポップで甘いレゲエを指向した。それがラヴァーズロック。 フィリーソウルやシカゴソウル、モータウンの影響をモロに受けたラヴァーズロックには優れたカヴァー曲も少なくない。


1990年代以降
1990年代中ごろ、ジャマイカではルーツアンドカルチャーの標語の下、ガーネット・シルク等が中心となりラスタ復興の兆しが現れる。またテクノやエレクトロニカのアーティストのよる新たなレゲエの解釈やジャマイカのダンスホールとイギリスのニュールーツとの交流、ヒップホップとのクロスオーバーなど新たな動きが現れている。


イギリスにおけるレゲエ

1967年に英国政府が移民を制限するまで、ジャマイカからのイギリスへの移民の数は膨張し続けた。この移民の中にはサウンドマンも存在し、1960年前後には小規模ながらもサウンド・システムが出現した。1961年の12月には、トロンボーン奏者のリコ・ロドリゲスがイギリスに移住し、イギリスにおけるジャマイカ音楽の発展に関わるミュージシャンの一人となった[1]。

ユダヤ系アメリカ人のエミール・E・シャリットは、1960年に「ブルービート・レーベル」を立ち上げ、積極的にジャマイカ産のR&Bやスカをリリースした。これを初めとして、カリブ海の音楽の小さなレーベルが乱立した。1962年8月のジャマイカ独立を機に、クリス・ブラックウェルがアイランド・レーベルをジャマイカからイギリスに移転させた。1964年、このアイランド・レーベルから出たミリー・スモールの「マイ・ボーイ・ロリポップ」が700万枚を売り上げ、スカの曲として初めて世界的なヒットとなった。さらに1967年、ブラックウェルはデューク・リードのトレジャー・アイルと契約し、トロージャン・レーベルを設立する。このレーベルはジャマイカ音楽を輸入し続けた[1]。

アイランド・レーベルは1972年に公開された映画『ハーダー・ゼイ・カム』のサントラ盤をリリースし、この盤ではジミー・クリフが数曲を歌いヒットした。翌年には、ボブ・マーリーの『キャッチ・ア・ファイア』が出て、アイランド・レーベルとレゲエの結びつきが世界に示された。

1970年代中頃から、ジャマイカ移民の二世を中心にした人々がレゲエをプレイし始めた。ルーツ色の濃いアスワドやスティール・パルス、白人中心ながら正統派のレゲエのUB40などがいる。また同じ時期に結成されたバンドマトゥンビのデニス・ボーヴェルは、イギリスにおけるレゲエとダブのみならず、ジャネット・ケイなどのラヴァーズ・ロック、スリッツやトンプソン・ツインズなどのパンクやニューウェーブのシーンでも重要な人物となった。ダブ・ポエトリーと呼ばれる、ダブに合わせて詩の朗読をするリントン・クエシ・ジョンソンといったアーティストも著名な存在となった。

イギリスでサウンドシステムを経営していたジャー・シャカはコンピューターライズドによってルーツレゲエを表現した。このようなスタイルはニュールーツと呼ばれる。さらにデジタル化したレゲエからジャングルやドラムンベース等の音楽が生まれ、UKニューウェーブやテクノ、ハウスといったクラブ系ミュージックにも大きな影響を与えた。

また、イギリスではソウルフルで甘い歌物のレゲエも好まれていて、それをラヴァーズ・ロック(Lovers Rock)と呼ぶ。ジャネット・ケイ、サンドラ・クロス、J.C.ロッジ、コフィ等、女性シンガーが人気である。
top

 | ホーム | 


 BLOG TOP  »NEXT PAGE